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アルド・トッリーニ著「禅」より、大乗寺の歴史と真如寺との関係について書かれた部分の抜粋。

道元禅師から瑩山禅師までの法統
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 道元の法統は二つの流れに分かれる。その一つは詮慧(生没年不明)と経豪(生没年不明)に継がれたが、その後途切れてしまった。もう一つは道元の法嗣となった懐奘の脈で、これが主流の法統となる。懐奘から法統はさらに次のように分化する。

懐奘→寂円→義雲(永平寺五世)
懐奘→義演(永平寺四世)
懐奘→義尹→鉄山
懐奘→義介(永平寺三世)→瑩山

道元以降、永平寺の歴代住職は、初期には次のように継承されている。
1. 道元 2.懐奘 3.義介 4.義演 5.義雲

 詮慧と経豪に嗣がれたもう一つの法統は、ほどなく消滅したが、この法統は「正法眼蔵」の注釈本を残したという点で重要である。まず永興寺の住持となった詮慧は、師の道元から聞いた説法を基に、「七十五巻本正法眼蔵」の解説書である「正法眼蔵御聴書」(全十章)を1263年ごろに記したとされる。詮慧の法嗣である経豪も道元の直弟子で、十巻本の「正法眼蔵抄」(1303-1308)を残した。この法統は短かったが、二人の注釈本は通常まとめて「御聴書」または略して「御抄」と呼ばれ、後世における道元の著書の解釈、ひいては宗門の教義とその正当性の発展に決定的な影響を与えた。実際この「御抄」は徳川時代中期に再発見され、道元の思想の解析にめざましい貢献を果たしたといえる。  とはいえ、主流の法統は、道元の忠実な弟子であり続け、師の最期を看取った法嗣懐奘の脈にあることには変わりない。  孤雲懐奘(1198-1280)は京都の公家の出身で、比叡山の円能の元で天台宗を修めた。24歳のとき、法然の弟子で浄土宗西山深草派の開祖、証空の元で浄土教を学び、その2年後には禅宗を学ぶため、現在の奈良県にある多武峯妙楽寺で、日本達磨宗の覚晏(生没年不明)に学参した。1228年多武峯は興福寺衆徒の焼き討ちにあい、他の僧と共に難を逃れた懐奘は、建仁寺で初めて道元と出会う。道元の教えの奥深さに打たれた懐奘はすぐに弟子入りを申し出るが、仮住まいの身である道元は時期尚早としてその申し出を辞退した。しかし二人の運命は再度引き合う時を迎える。建仁寺を下りた道元が、深草(現在の京都府宇治市)に、曹洞宗の最初の寺と位置づけられる興聖寺を開いたとき、懐奘は正式に弟子として迎えられ、首座に選ばれた。長年求めていたものを見つけた懐奘は、残る生涯を師、道元に参随することになる。 彼らの初相見について、「伝光録」では次のように書かれている。

—(長い対談が終わったあと)懐奘の直感的なひらめきは確固たるものに変わり、道元の元で学びたいと節に感じていた。道元は云った。「私は正伝の仏法を継承して日本に広めたい。今は建仁寺に留まっているが、いずれ別の場所に居を移すつもりです。もし場所が見つかり庵を建てることができたら、訪ねてくれませんか?この寺で私に師事するのはよくありません」懐奘はその言葉に従い、時宜を得るのを待った。その後道元は、京都の町外れにある寺の一角に庵を建て、一人で生活を始めた。2年間訪れる者はいなかったが、1234年懐奘はそこに現れた。道元は喜んで懐奘を迎え、昼夜を問わず仏道について論議しながら、個人的に指導を始めた。3年後、道元は「無数の花の間をかきわける」たとえ話をする。「一瞬は万年に同じ、一本の髪の毛は無数の花をかきわける。試練を乗り越えるのはおまえ自身だ。群衆をかきわけるのはおまえ自身だ」それを聞いた懐奘は悟りを開いた。師から印可を受けた懐奘は、その後の20年間、ただの一日も離れることなく、影が形に従うごとく師に寄り添ったのである。

 懐奘以降、興聖寺には、達磨宗を離れた僧侶たちが次々と集まってきた。義介、義演、義雲、義尹・・彼らはみな懐鑑の弟子たちである。
 この興聖寺の時代に、道元の法を公式に継承した懐奘は、師の非公式な法話を筆録していった。それが「正法眼蔵随聞記」である。道元がたゆまなく「正法眼蔵」を執筆していくかたわらで、懐奘はいくつかの章の書写、編纂に携わった。懐奘はその生涯をかけてこの編纂作業に従事し、今日われわれが道元の著作という尊い遺産を手にすることができるのは、彼のおかげである。懐奘自身の著作としては、有名なものに「光明蔵三昧」がある。
 1246年から47年にかけての冬、執権北条時頼を教化するため道元が鎌倉に出発したときも、懐奘は同行した。1253年道元が遷化すると、懐奘は永平寺二世に任命されたが、そこでは間もなく、道元の遺風を遵守しようとする保守派と、元日本達磨宗の参学者を中心とするいわゆる改革派の対立が起こった。後者は、より民衆に門戸を広げた教義を主張していた。初め懐奘は、道元の遺風を固く守りながらも二つの派閥の仲裁に努めたが、その性格に強さとカリスマ性が欠けていたため、1267年永平寺を下りて近くの小さな庵に閑居することとなった。このとき宋留学から戻ってきたばかりの義介が、寺の運営を任せられ、永平寺三世を継ぐことになる。しかし内部の対立はますます悪化し、1272年今度は義介が永平寺下山を余儀なくされ、再び懐奘が住職に舞い戻ることとなる。この論争は「三代相論」と呼ばれ、曹洞宗の後年の発展に重要な役割を果たしたため、宗門内ではよく知られている。晩年の懐奘が特に力を注いだのは、道元の著作の編纂事業であった。
 曹洞宗三祖である徹通義介(1219-1309)は、越前(現在の福井県)に生まれ、比叡山で学び、1241年興聖寺で道元に弟子入りした。永平寺では寺の運営という重要な任務に就いた。永平寺を下りたあとは加賀(現在の石川県)に移り、真言宗であった大乗寺を禅宗寺院に改めた。大乗寺における彼の法嗣、瑩山紹瑾は、後の曹洞宗の発展期に重要な役割を果たした第一人者である。

 1267年に始まり、半世紀も続いた「三代相論」は、道元のエリート志向で厳格な教えを遵守しようとする保守派と、民間に伝わる祭儀を取り入れながら一般民衆の必要性に応え、最終的に彼らを改宗させようという、より門戸の開かれた宗風をめざした改革派との対立を招いた。宋への留学から義介が戻ると、懐奘の後継者をめぐって、改革派を代表する義介と保守派の義演との間で争いが始まった。永平寺三世に義介が選ばれると、対立派の僧たちは、義介から住持の職権を奪い、永平寺から追放した。永平寺に戻ってまもない懐奘の示寂後(1280年)、再び後継者問題が浮上した。この時は、改革派が優勢であったため、義介を永平寺に呼び戻したが、7年後(1287年)再び義介は永平寺を去り、改革派の僧を引き連れて大乗寺に赴く。このような経過を経て、曹洞宗は永平寺と大乗寺に枝分かれすることになる。
 義介が去ったあと住職となった義演は、永平寺の指揮を始めたが、対立は依然として収まらなかった。有力な後援者であった波多野家は、この有様を見て寺への寄進を打ち切ったため、永平寺はまたたく間に衰退してしまう。ついには義演も寺を去り、隠遁生活に入っていった。このようにして、しばらくの間永平寺は指導者なき状態が続き、火災によって部分的に焼失するという憂き目にあう。
 道元のもう一つの重要な法統は、洛陽出身の中国人僧、寂円智深(1207-99)の脈である。景徳寺で長翁如浄(1163-1228)に師事しているときに、道元と知り合った。如浄の遷化後、来日して道元の弟子となる。師と共に7年間興聖寺で修行し、次いで永平寺に移ったが、道元の遷化後は懐奘と共に永平寺に留まった。
 この「三代論争」において、保守派に属していた寂円は義介と対立し、1261年永平寺を去り、銀杏峰(現在の福井県)の山の麓でひたすら修行に没頭する生活を送っていた。この時期に越前(現在の福井県)の大野に領地を持つ伊志良家の一員と知り合った。1278年寂円によって曹洞宗に改宗した伊志良氏は寂円のために、越前に宝慶寺を建てた。寂円の法嗣義雲は、後に宝慶寺の住持職を継ぐ。
 義雲(1253-1333)は、若い時に京都で華厳宗と天台宗を修め、1276年24歳で宝慶寺に参禅して寂円に師事し、二代目住職に任命された。さらに波多野家から要請を受けて、永平寺五世に就任し、伽藍の復興、「六十巻本正法眼蔵」の編纂を完成させる。また「義雲語録」も残した。寂円と義雲の法統は、その後何代にもわたり永平寺の指揮を務めた。
 
 道元と並ぶ曹洞宗の祖と呼ばれるのが、瑩山紹瑾(1264-1325)である。越前に生まれ若くして永平寺に入山して義介、ついで懐奘に師事した。二人の師匠亡きあとは、寂円のいる宝慶寺に赴き、次いで東福寺の無本覚心の元で学ぶ。道元の指導はエリート階級を対象とした排他的なものだったが、対称的に瑩山は禅宗の大衆化と門戸開放を念頭に置き、精力的に活動した結果、多くの支持を得ることができた。京都と東北地方の寺社を歴訪した後、瑩山は大乗寺に落ち着き、義介に次ぐ二代目住職に就任した。大乗寺時代の1300年から1303年にかけて、瑩山はもっとも有名な著作「伝光録」を執筆している。その他の主要な作品として「坐禅要心記」、さらに「信心銘拈提」「三根坐禅説」「瑩山和尚語録」などがある。
 1321年58歳の瑩山は、能登(現在の石川県)、櫛比庄の諸嶽寺に移り、禅宗寺院に改めて総持寺と名づけた。こうして曹洞宗第二の本山、総持寺が誕生する。総持寺は現在横浜市にあるが、1898年能登の本山が火災で焼失したため、1907年現在の地に再建されたものである。
 瑩山は晩年に総持寺の住持職を弟子の峨山紹碩に譲り、永光寺に隠遁して叢林の規則をまとめた「瑩山清規」を著した。
 瑩山の唱えた宗門の開放、土着の祭祀や密教的修行の導入は、民衆の間に大きな評判となり、禅宗は初めて農村地帯へ広く普及することとなった。総持寺の僧たちは、特に農民階級の教化、救済、葬儀などの法要に力を注いだ。これらの改革は、開祖道元の厳格な教えから宗門を遠ざける分岐点の始まりとなったが、その結果として、曹洞宗は現在日本国内でもっとも広く信仰されている仏教宗派のひとつに位置づけられている。
 実際に瑩山によって宗門は復興し、道元の築いた道とは方向を異としながらも、その勢力範囲は徐々に広がり、日本海沿岸や九州地方に至るまで多くの信者を獲得した。瑩山が遷化した当時の日本では、永平寺、永光寺、大乗寺、総持寺の四つが曹洞宗の主要な寺院として数えられていた。

卍山、面山ら曹洞宗の宗統復古運動を担った人々 
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 卍山道白(1635-1715)は現在の広島県の出身で、10歳のとき龍興寺に参じた。曹洞宗の月舟宗胡に師事し、師の法統を嗣ぐ。後に石川県の大乗寺の住職となった。
 卍山は、面山、梅峰竺信(1633-1707)らと共に、曹洞宗を、開祖道元が考案した元の形態に戻そうとする復古運動の立役者となった。道元亡き後数百年を経る間に、宗門は開祖道元の提唱したものから遠ざかっていたが、卍山らは、永平寺と総持寺を、道元とその後に続いた禅師たちの直接の後継である二大本山であると改めて。卍山は黄檗宗の隠元が開いた叢林の規則を参考として、大乗寺に、厳しい修行の場にふさわしい厳正な規矩を定めた。1869年永平寺から要請された卍山は、本山の規矩にも改革を施していった。中でも、当時一般的になっていた伽藍法(師匠からでなく、寺院の住職から伝えられる嗣法)を、批判した。この方式では、一人の僧侶が所属する寺を変えるたびにその寺の住職に嗣法するというふうに、一生に何度も法統を変えることができたのである。卍山はこの制度を撤廃し、以前のように師弟の関係を基盤とした法統制度に戻すよう幕府に訴えた。長い論争の末、卍山の主張は認められ、1703年伽藍法は廃止された。
 卍山の改革は、黄檗宗という他の宗派を規範としたこと、形式主義であるという理由から多くの非難を浴びることになったが、宗門内の見直しと新しい研究への推進力となり、とりわけ宗学の研究、解釈、解説の分野では大きな業績を生んだ。特筆すべきは卍山が大乗寺で編纂した「89巻本正法眼蔵」(大乗寺蔵と呼ばれる、1686年完成)である。だがこの貴重な文献は、独占出版権を主張する曹洞宗宗門によって刊行は見送られた。
 晩年の卍山は法嗣に大乗寺住持職を譲り、大阪に近い興禅寺に隠棲し、「卍山和尚広録」を書き残した。

ヨーロッパにおける禅
294ページ18行目より297ページ28行目まで

ヨーロッパでは1960年代以降、禅への関心が研究者以外の層にも広がり、特に同時期のアメリカでの傾向に影響を受けた若者たちが禅の書物を読み、実践するようになった。日本で勉強し嗣法を伝授された(中には伝授されていない者もいたが)ヨーロッパ人による修行の場がつぎつぎと生まれ、禅の教えを始めた。今日、ヨーロッパには、大小さまざまな規模の禅道場が存在し、1975年創立でイタリア人マリアアンジェラ・ファラが会長を務めたEBU(ヨーロッパ仏教連合)、1985年EBUの分派としてミラノに設立されたUBI(イタリア仏教連合)などの団体が公認する道場、またこれらの機関に所属せず独自に活動している道場で、禅の教えに近づくことができる。EBU、UBIのいずれも宗派の区別なく仏教の普及、研究、修行を促進する機関である。実際にこのような仏教道場と教師の数が急速に、規制されず増え続けていることにより、教場としての質が必ずしも十分なレベルにないという問題も起きている。
イタリアでは、1987年ローマでヴィンチェンツォ・ピーガ(1921-1998)が設立したマイトレヤ財団がある。ピーガは、ジャーナリストで熱心な仏教愛好家でもあり、仏教諸派の普及を目差し、雑誌〈ダルマ〉(前身は〈パラミータ〉)を刊行した。〈ダルマ〉は仏教的なテーマを取り上げると共に、イタリアで仏教を学び、修行できる主な道場についての情報を発信している。

現在イタリアには、臨済、曹洞の各宗派の流れを汲む禅道場が数多く存在するが、そのうち長い歴史を持ち、多くの参禅者が集まる道場を以下にご紹介したい。

-スカラムッチア・ぜんしん寺、オルヴィエート。臨済宗。1973年にルイジ・マリオ・タイノ師(1938-)によって創設。タイノは日本に6年間滞在し、1971年神戸の祥福寺の山田無文老師より受戒し、エンガク・タイノの法名を授かる。ここでは〈スカラムッチア便り〉を刊行している。

-チェルキオ・ブオート(円空道場)、トリノ。1996年マッシモ・ストルミア・ダイドウ(1950-2010)によって創設、ダイドウは安泰寺に参禅、沢木興道老師の法統にある渡辺耕法老師の下で修行をした後、永平寺に参禅、勉強を続け、教師(仏教の伝道者)の資格を受ける。

-円相寺、ミラノ。1988年、曹洞宗の原田老師、安谷老師の教えを受けたカルロ・セッラ・鐵玄(1953−)によって創設。1991年パルマの田園地帯に別院を開設。指圧の指導も行っている。

-正法山普伝寺、サルソマッジョーレ・テルメ(パルマ県)。1975年に弟子丸老師より受戒したファウスト・グアレスキ・泰天により1984年創設。修行に留まらず、禅についての研究も熱心に行われている。

-真如寺禅道場、フィレンツェ。金沢の有名な大乗寺の東老師の弟子であるアンナマリア・伊天真如により創設。大乗寺別院として、日本との密接な関係を保っている。当道場も曹洞宗の教義に従っている。

欧米諸国における禅の将来はどうなるかを述べるのは容易なことではない。最初に欧米に伝わった段階では、禅はさまざまな形で受け止められた。哲学として、神秘主義の一形態として、知的アプローチを伴う研究対象として、反消費主義と開放主義的なイデオロギーとして。さらに平和主義と反暴力の立場にインスピレーションを与えるものとして。今日ますます普及しつつある傾向は、ひとりの師匠の指導の下に少人数のグループで修行(坐禅を組む)をする形態である。この傾向は、より実践的であると同時により宗教的に禅を理解する方向へ進んでいるといえる。それは成熟の印と言えるだろうか?
かつて、禅宗が伝来した国々では、禅はその土地固有の文化を吸収し、順応や修正をくり返すと同時に、文化的にも貢献した場所でのみ根づくことができた。遅かれ早かれ、西欧諸国でも同様の結果が、つまり禅(主に日本で確立された禅宗を指すが)とユダヤ・キリスト教あるいはギリシア・ローマ文化という西洋の伝統文化との融合が起きるのではないかと期待される。
この現象が起きるためには、まず何より禅に関する知識を最大限に深める必要がある。現在のところ、禅の理解レベルは、特異で奇抜に見える面を、ただ表面的に限られた範囲で探っているにすぎない。その一方で、禅の中に、発祥の地である中国、日本という領域から一線を画した、普遍的な次元があることが認められるべきだろう。禅が与えてくれる経験が、特定の文化を超えて一人の人間に問いかけているものだと理解できてはじめて、その国固有の伝統が、どんなものであれ禅の持つ普遍性と人間の見方に融合できるであろう。
そういう意味から、禅の持つ普遍性は、名前こそ変われど、中国・日本文化とは異なる文化の中に、同類の経験を見出せることに注目されたい。一例としてすでに述べたキリスト教神秘主義との関連性があるが、より世俗的なレベルでいうと、あてはまる言葉が見つからないが、もっと単純な、日常性で出会うことのできる〈さとり〉である。もし禅が、認識もされず言語的にも定義されてはいないが、普遍的な経験であるとするなら、それは人間の魂の一部をなすものであり、従ってそれは存在し、自らを明らかにするからである。ピランデッロの作品の終章を「自発的なさとり」または「無意識のうちのさとり」として以外に、どのように解釈することができるだろうか?

空気は新しい。すべてが一瞬一瞬、あるがままに、生き生きと姿を現す。その外観に留まって死んでしまうのをまったく見ないよう、すぐに目を閉じる。こうして、今や私だけが生きることができる。一瞬一瞬生きかえること。思考が私の中で再び活動を始め、空虚な構造の空白を内部に再び作るのを妨げること。
町は遠い。時折、穏やかな夕暮れ時に、鐘の音が私に届く。だが今その鐘は私の中ではなく、外で聞こえている。暖かい太陽の光あふれる美しい青空の下、ツバメの鳴き声や雲を運ぶ風の中、空中の鐘楼で、重く高く、音を立てる空洞の中でおそらく喜びに震える鐘は自分自身のために鳴っている。死を思い祈ること。まだこのようなことが必要な人もいて、鐘は音をだす。私にはもうこのような必要はない。一瞬ごとに死に、記憶なしに再び生まれるから。無傷で生きているが、それはもはや私の中ではなく、外のすべてのものの中に。

この作品の主人公は、自分自身のアイデンティティーを探して内面的な長い道のりをたどった結果、さとりを得たのである。

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